死の恐怖を消す思考法「不死を考える」

不死から考える「死」

最近のマイブームは「死」デス。
個人的なデスブームです。

ふとした瞬間に死ぬことの恐怖にとらわれることありませんか?
自分が死んだ後もずっとこの世界は続いていく…
自分を置き去りにしたままで…
ときおり寝る前になんともいえぬ恐怖に包まれることがありました。

最近はその恐怖は減りました。
死についての学ぶ中でいくつかの考えを知り、
徐々に受け入れられるようになっています。

ミニマリストとしては、

モノを減らすことで「死」の恐怖は和らぐ

と断言したいところですが、今回はそうではなく一つの思考法を紹介します。

知れば死の恐怖が少しは緩和するかもしれません。

死を考えること自体イヤだ、
という人もいると思います。

そうした死に対して「生理的にムリ」っていう人が、
「そこまでムリじゃないかも、いやむしろ逆にアリかも」
と思っていただければ幸いです。

結論を先にいえば

不死が地獄であることに気づけば
死ぬことは恵みであることが分かる

不死を考えることで
死への恐怖は薄まります。
詳しくみていきます。

不死は素晴らしいのか?

もし「死ぬのが良くない」が正しいなら

死なないこと=不死が良いことになります。

(ここでは不死=不老不死でよいです)

ドラゴンボールのフリーザ、ベジータから
古今東西の皇帝まで不死を夢見ました。

不死のままずーっと生き続けることは本当に「良いこと」でしょうか。

人生もいつかお腹いっぱいになる

どんなに好きな食べ物も飽きます。
チョコレート1個目はおいしい。
2個目もおいしい、3個目もおいしい…
じゃあ連続100個目は?

どんなに好きな食べ物もいつかは飽きがきます。

人生も同じかもしれません。
明日は生きたい、明後日も生きたい、1000日後も生きたい…
じゃあ100億日後はどうか?

もし人生に飽きたとして、
飽きたまま生き続けなければならないとしたら?
飽きたゲームを続けるのは苦行です。
飽きた人生、それは「生き地獄」になりえます。

不死=生き地獄にならないための方法はあるでしょうか?

永遠の暇つぶしはできるか

いろんな人生を経験する

永遠の暇を解決する手段を考えてみます。

もし永遠に生き続けるなら何でもできます。
あらゆる国に住むこともできます。
なんにでもなれます。
この先100年は弁護士をして、その後100年は作家になって…とキャリアも思いのまま。

またあらゆる趣味も経験できます。
読書一つとっても地球全体で考えれば途方もない蔵書があります。

ただ数千年は充実して過ごせるかもしれません。
でも永遠は文字通り永遠です。
永遠に飽きない、なんてことがありえるのでしょうか。

すべての夢がかなう装置

快楽は不死の特効薬になるでしょうか。

たとえば
ある体験装置が開発されたとします。
この装置に入るとあなたが望む体験を疑似体験できます。
疑似体験とはいえ完璧かつ完全な体験で、現実となんら変わりません。
マトリックスに出てきた装置のように入っている本人は、入っていること自体に気が付きません。
こんなどんな快楽も経験もできる夢のようなマシンが開発されたとします。

この装置があれば、永遠の暇もつぶせるかもしれません。

どうでしょう。

これも極めて高度なゲームあると考えれば、やはりいつか飽きがきそうです。
そもそもそんな装置に入って人生を過ごしたいと思うか、という問題もあります。
抵抗を感じるのは、脳に電極を刺され快楽を絶えず刺激されたラットと変わらない気がするからです。

記憶を消去する

次は記憶の消去です。ゲームでいう「リセット」。
記憶を消去し、頭を白紙の状態にすれば人生を新鮮に味わうことができます。
飽きるたびにリセット。そうすれば常に新鮮な体験ができます。
でもその体験をするのは「わたし」なのか。

記憶の消去と「わたしの死」は何が違うのか。

記憶が消える=死
と考える人にとっては慰めになりません。

悟りを開き「入滅」を目指す

ブッダは
生きること=苦しみ
であると語りました。
仏教は最終的に「無」を目指します。
悟ることで入滅する(無になる)とされます。

永遠の命を与えられたとしても、悟れば入滅することができるかもしれません。

ただし次に悟るとされる弥勒菩薩ですらあとおよそ56億年後とされます。
少なくともわたしは数十億年間座禅したくはありません。

もはや別人

もし1000万年生きることができたら、今とまったく性格が変わり別人になっている可能性もあります。記憶も10年前は思い出せても1万年前は思い出せないかもしれません。

「わたし」がわたしであり続けるためには、記憶や性格などのつながりが必要です。もし記憶や性格の断絶があるならそれは「わたし」なのか。
容姿やひょっとしたら性別までも変わっている可能性もあります。そうなればより「他人」である気がします。

将来も「死にたくない」ままか?

いま怖いと思っていることも50年後は違っている可能性があります。

たとえば私の印象ではお歳を召された方は
「もう早く死にたい」
と口にすることが多いです。

もちろん冗談であることがほとんどだと思います。

ただ生物学的な寿命に近づき、身体が弱り、頭も十分に働かなくなったとき。
若い時と同じように「死」に対する心理が同じだとは思えません。
もしかしたら死を受け入れる思いも生まれてくるのではないでしょうか。

死の問題

不死を考えた場合、問題は死が早く来すぎることです。
人生は100年です。
人生を満足するまで味わい尽くすには早すぎます。
ただ1000年あれば満足できるのか、1万年あれば足りるのか、私たちには想像できません。ひょっとしたら1万年生きても「満足する」ことはないかもしれません。

さいごに

結局「死にたくない」というとき私たちが望んでいるのは、
心の底から満足してから死にたい」ということです。

でもそのためには人生は短すぎます。

「死」の何がわるいかといえば早く訪れすぎること。

一方で不死は最悪になりそう。
不死の地獄から救う手段が「死」です

その意味で死はその訪れが感謝の対象にすらなる可能性も内に秘めているのです。

「死」は不死という地獄に対する救いになる

参考:「『死』とは何か」

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