仏教 五蘊説
五蘊(ごうん)とは、ブッダが説いた人間をつくる5つの要素のことです。「蘊」は、集まりを意味することばです。
ブッダは、人間という存在は、次の5つからつくられると説きました。
色、受、想、行、識です。
五蘊は、人の認知をつくる要素ともいえます。現代風にいえば、肉体、意識、感情、意志、感覚のことです。
一つひとつ見ていきます。
色・受・想・行・識
- 色…物質性
- 受…感受作用
- 想…表象作用
- 行…形成作用
- 識…識別作用
わかりづらいですね。これをよりわかりやくすれば、
- 色(ルーパ)…物質。この身体。
- 受(ヴェーダナー)…感覚を受け取って反応すること。
反応には、「楽」「苦」「不苦不楽」(快、不快、どちらでもない)の三種類の反応パターンがある - 想(サンニャー)…「これはこういうものだ」という認識。対象を区別すること。概念、知識、記憶などのかたまり。
- 行(サムカーラ)…意志。行為のこと。ほぼ業(カルマ)とおなじ。
心で何か考えることも含む(心的行為)。具体的に心的行為には、信念、注意力、欲望、智慧、欲望、嫌悪、無知など全部で52あるとされる。 - 識(ヴィッニャーナ)…感覚を通じて入ってくる情報を単に受け取る作用。
これでもまだわかりづらいと思います。
五蘊の具体例
実際に流れで見ていきます。
- ケーキが目の前にあるとします。
- まずは、目、鼻によって「対象」があることが確認されます。これが「識」です。
- この段階ではまだ目に見えるもの、匂いのするものがある、という認識だけ。このときにはまだ、それがケーキだとはわかっていません。
- 次の「想」の段階で、「これはケーキである」と認識されます。
- それから「受」です。「快」あるいは「不快」の反応が起きます。ケーキが好きな人であれば「快」、苦手な人なら「不快」の反応が生まれます。
- 次に「行」です。「食べよう」「いや、我慢しよう」などの考えが生まれます。それによって、食べる、食べないなどの行動につながります。
- そして、お腹が減っていないのに食べてしまえば、「貪欲」の業(カルマ)を積むことになります。逆に、健康のために控えれば、良い業を積めるでしょう。
※「識」について「日本仏教」の多くは、上記とは異なる解釈をしています。
識を、経験に基づく認識や理解のことであると説明しています。この記事では、原始仏教の教えに基づいています。ただどっちが正しいのかということはあまり重要ではありません。理由は後述します。
以上が、仏教の五蘊です。
このように五蘊とは、仏教における人間の認知を生む要素のことです。現代の科学では、もっと的確に人間の構成要素や認知を説明できます。だから五蘊一つひとつの意味はさほど重要ではないと思います。
では「五蘊」はもう時代遅れの概念なのでしょうか。
決して時代遅れの考えではありません。
むしろ現代だからこそ活かせる知恵があります。
五蘊で大事なことは、次です。
五蘊説の現代における意味
五集合でさえ「無常」である
人間を構成する要素はなんであれ「変わる」ということです。
たとえば肉体。絶えず変わっています。一瞬一瞬、老化していきます。
気分や感情も変わります。幸せな気分や楽しい気分はずっとは続きません。
だから、ブッダは、そうした常に変化するものに執着してはいけないと説いたのです。
「若さ」や「自分の考え」、「感情」、「持っているもの」などもつねに変わります。そうした変化するものを「変わらないもの」と執着することで苦しみが生まれるのです。
この五集合によって生まれた「じぶん」に執着することで苦しみが生まれることを「五蘊盛苦」といいます。
さらにその先も重要です。
「わたし」でさえ移り変わる
人間をつくっている要素は「無常」で常に変わります。そうしたはかない要素のつながりから生まれるのが「わたし」という感覚です。「わたし」という感覚はもろい土台の上にあるのです。
その証拠に麻酔を打てば即座に「わたし」は消えます。そもそも幼少期のころに「自我」はありません。心の成長とともに形成されるものです。
つまり、絶対的と思える「わたし」という感覚はとてもはかないのです。にもかかわらず、はかない「わたし」にしがみつくことで、様々な苦しみや悩みが生まれるのです。
すべての悩みの原因は「自我」
- たとえば「わたし」があるから「所有」が生まれ、執着が生まれます。争いも起こります。
- 「わたし」は特別です。だから「わたしが正しい」という判断が生まれます。この判断のせいで、「間違っているのは相手」だという怒りを生みます。
- 過去の後悔にしつこく悩まされるのも、「わたしが」傷ついたと認識するからです。
でも、繰り返しになりますが、確固たる「わたし」というものは、存在しません。人間を構成する要素の間の働きで生まれているにすぎません。
無常への洞察が苦しみを減らす第一歩
「わたし」という感覚は、絶対ではない。はかない存在であることに気づけば、「わたしが、わたしが」と我を張ることのむなしさに気づくはずです。このことに気づくことが苦しみの原因となる執着から離れる第一歩です。
こうしたことは、現代においても生きるヒントになる考えではないでしょうか。
さいごに「魂」について補足したいと思います。
「魂」はあるのか?
ブッダは、人間をつくる五集合のいずれも「アートマン=魂」はないと語っています。
バラモン教やヒンドゥー教では「アートマン」という魂の存在を認めています。輪廻転生において魂が転生すると考えられていたからです。
このことを否定した仏教は、当時は今以上に斬新的な教えでした。魂を否定してまで、人間は無常性を説くことが重要だったのかもしれません。
「非我」 魂についての仏教の見解
ただ、ブッダは、魂自体がないと明確に語ったわけではないとされます。具体例を取り出してこれはアートマンではない、それもアートマンではないと語ったにとどまります。これが「非我」の意味です。アートマンはないといえば「無我」になります。ブッダは、「非我」の立場に立っていると説明されます。
そして、有名な「毒矢のたとえ」で語ったように、魂や宇宙の永続性などの自らが経験できない抽象的なことに関しては、ブッダは、考える必要はないという立場をとっています。